この春、三年に進級するとほぼ同時に俺は失業した。
 なんて言っても、学園を退学になったわけじゃない。
 ついにバイト先を首になったのである。
 と言っても、俺個人が首にされたわけではない。
 つまり、俺の主とするアルバイト先、コペンハーゲンがこの不況の折潰れてしまったのである。
 店長一家は散々社会全体に逆切れした挙句、北へ黄金を探しに行く言って逐電してしまった。最後まで無茶な一家だった。
 それで、残されたのは、猫さんから藤ねえに宛てた手紙(あばよ、と一言。物凄い男っぷりだった)と、電灯の消えた店舗のみ。今のところ新しいテナントの入る気配は無い。今のところは。
 そんな風にしてバイト先を無くした俺は、現在貯金を食いつぶして生活をしている。なかなか条件の合うバイト先が見つからないのだ。
 この話は、そんな俺が新しいバイト先を見つけるまでの話である。
 本当にこれはそれだけの話。それ以上のものは期待できないし、それ以下のものでもないつもりだ。
 けれどまあ、とりあえずこの話は挨拶ってところ。
 まあ、ひどく長いスピーチだけど。

―――冬木イーストカレーハウス―――

 灼けた鋼のように赤く蕩けた光景だった。
 そこはかつての戦場。そしてかつて人々が生活していた村だった。
 微かに残る住居の残骸は、見るものに風化しかけた髑髏のような印象を与える。
 人々の憩いの場であるはずの井戸は干からび、代わりに邪魔になった亡骸が放り込まれていた。幾重にも重なり、もうそれはすでに井戸から溢れ出すほどの量だというのに、それでも尚収まりきらぬ亡骸が、地面のそこかしこに打ち棄てられている。
 燃えているのは罪人である。この惨状を作り上げた咎人。
 男は一人それを眺め、なぜ俺は燃えぬと自らに問う。咎があるというのなら我が身が一番の咎人。人々を救うはずの守護者は、その実救えるはずの人間を見捨て、ひたすら全てを殺すのが仕事だった。
 ―――それはいつかの幻視。
 男のその後は知らない。今の自分にはあまりに遠い存在であり、俺とは別人の未来の記憶なのだから。
 もともと知るはずの無いこの光景は間違いなく夢だと思った。
 事実、赤い大地は乳白色の霧に撒かれ、男の姿は薄ぼんやりとしてやがて見えなくなった。
 まるで磨耗していく記憶のように。
 ただ、夢から覚めるわずか一瞬前、その男が崩れる光景を見た気がした―――。

 薄く目を開けると、それだけで強い日差しが、鋭利なナイフのように眼を刺し貫いてきた。思わず顔をしかめる。土蔵でうたた寝した罰が当たったのだと考えると、春とはいえまだまだ冷える土蔵の中、何だかやるせなくなった。
 昨晩は確か、魔術の訓練だけでなく、藤ねえが拾ってきた空気清浄機を直していたと思う。フィルターを取替え、ファンの具合を確かめていたらうっかりそのまま寝てしまったようだ。
 肝心の空気清浄機は何とか可動させられそうだった。けれどもこれは隣の家に強奪される運命にあるだろう。なんてったって今年の藤村組は花粉症が熱いブームなのだ。藤ねえも、朝から晩までティッシュ箱片手に鼻水ダラダラな極道たちの姿に嫌気が差したのだろう。昨日の夕方、壊れた空気清浄機片手に意気揚々と衛宮邸に現れた藤ねえの姿を見て、恣意的な印象を受けたものだった。
 ―――話が脇にそれた。つまり昨晩はボランティアに睡眠時間を削ったのだ。ならば目覚めくらい、健やかに円滑にさせて欲しいものだ。
「先輩―? 起きてますかー?」
 桜の声だった。時計を見て驚く。現在時刻すでに六時四十分。
 ひどい寝坊だった。

「寝坊して悪かった。おはよう、桜」
 急いで制服に着替え、顔を洗うと、それだけでもう貴重な時間を五分も使ってしまっていた。
 食卓にはすでに朝食が並んでいた。特別に冷え込んだ今朝のメニューは、二日前に買ったトーストされていない食パンに、マーマレードがこれでもかというほどぶちまけられていて、メインには冷製ローストビーフと朝から豪気に。冷製カボチャスープは美味しそうな湯気を―――出しているわけが無かった。
「桜……? これは」
「え、あの、今日はリクエストに応えて洋食にしてみたんですけど……駄目でしたか?」
「いや、そうじゃなくて――」
 作為を! 誰かの作為を感じる! マーマレードの姿にとかリクエストとかその辺に!と言ってこんなことする人間を、とりあえず形而上にしろアンチテーゼにしろ人間を、俺は一人しか知らない。
「やーい。寝坊する士郎が悪いんだー」
 とマーマレードで食パン惨殺だとか、このくそ寒い中冷たい肉とスープを所望するだの、その犯人候補ぶっちぎりナンバーワンと言うか犯人その人が、きちんとトーストしたパンをもむもむ咀嚼しながら俺を笑っていた。
「藤ねえ。この食パンの姿は……?」
 震える指先で皿に置かれた惨殺死体を示す。まったくあられもない姿だった。丸々二、三瓶消費したらしい柑橘ゼリーは、どう考えても完食すれば病院のベッドが待っているように思えた。
「ふふふ……。マーマレードの呪いね。これはきっと」
 口元に手を当て、怪しげな言葉をつぶやく藤ねえだった。
 まあマーマレードのことはいい。合併症にさえ気をつければ、糖尿病はそれ自体で死亡することは無いと聞くし。
「じゃあこれは?」
 テーブルに並ぶ温もりを知らない食品群を指差す。
「まだ寒いのにこれはおかしいだろ。絶対に」
「先輩……お気に召しませんでしたか?」
 うう。そうか、これらは全部桜が作ってくれたのだった。あまり強く言うと失礼になる。桜はこの虎に騙されただけなのだ。
「いや、そうじゃなくて。料理はすごくうまそうだけど、朝から冷たいものというのはいかがかと……。まだ寒いし」
「なによう。それは士郎が最近ずっと土蔵に入り浸ってるからでしょう。私は全然寒くないもん」
 む。後者は藤ねえが人間じゃないせいもあるかもしれないが、前者は一理あるかもしれない。土蔵は風通しがよく(隙間風が入るとも言う)基本的に毛布一枚しか着ないのだから。
「―――解った。今夜からはきちんと部屋で寝るよ」
 と言って、冷製ローストビーフに手をつける。
「ところでセイバーは? 今日は来てないのか」
「セイバーちゃんなら見てないわよ。あと仇敵も」
 藤ねえは二枚目のトーストにかかる。そのトーストにマーマレードを半分くらい移してやった。
 しかし、セイバー今日は来ないのか。最近はずっと入り浸っていただけに少し心配になる。
 ちなみにセイバーは聖杯戦争が終わって以来、遠坂の家に居を移した。魔力供給にはお互いが近くにいたほうが何かと都合がいいらしい。けれどセイバーは夕飯には必ず、朝飯は時々、俺や藤ねえのいる時は昼飯まで、衛宮の家に食らいに来る。その際は概ね彼女のマスター殿もご同伴である。従って我が家のエンゲル係数はうなぎのぼり。収入が激減したことも合わせて衛宮家の家計は大ピンチである。二ヶ月前、遠坂から魔力を分けてもらった際に、良くないものも一緒にもらってしまったのでは? と疑いたくなる。遠坂の家は家系的に金欠だって言うからなぁ。
「ううむ、恐るべしマーマレードの呪い……、―――こんなに甘くてほろ苦いとは。ところで士郎、今日の帰りは?」
 何時ぐらい? とマーマレード地獄(二分の一)のトーストをほおばりながら聞いてくる藤ねえ。この人外は口に物が入ってないと喋れなくなるスイッチでも押してしまったのか。
「んー。生徒会から呼ばれなかったら、まっすぐ帰ってくるけど」
 今日は元々コペンハーゲンに行くために放課後を空けておいた日なので、バイトもないしとは言わない。藤ねえも猫さんがいなくなったのを寂しがっているのだ。
藤ねえが「わかった」とうなずいて、後はいつもの静かな朝食だった。

 朝練に急ぐ桜を先に出して洗い物を済ませた後、俺もようよう家を出る。
 朝の空気は冷たく清んでいるにもかかわらず、ピンク色の花をほころばせた木はどこか温かで、はらはらとその花びらを散らせている姿は、どこか神秘的な様相をはらんでいた。
 屋敷のすぐ前の坂を下る。深山町は何気に坂が多い。下の交差点から出る道は実に三つが坂に繋がっている。例えば交差点の南の道を進めば洋館の集合する丘に繋がる坂に出るし、西へ進めば今俺が下っているこの坂に繋がる。学園へ行くにはこの二つの道の間を進めばいいのだが、つまり交差点に着くと大抵あいつと顔を合わせることになるというわけなのだった。
 さて、あいつというのはこの場合―――
「おはよう、衛宮くん。今日もいい朝ね」
などと白々しい挨拶をしてくる遠坂である。
「おはよう、遠坂。今日はセイバーどうしたんだ?」
 俺の質問にむうと顔を顰める遠坂。
「会ったなりセイバーの話? まあ良いけど」
 全然良くなさそうだった。何が不満なのか知らないけれど、言いたいことがあるのなら七十%オフ位でスパッと言って欲しいものだ。ただでさえ最近遠坂と会うのは気が重いのだから。
「今日はセイバーは充電。昨日の晩ちょっと調べもの手伝ってもらったら貯金分の魔力がパーになっちゃって、それで今日は一日眠ってもらってる」
 あっけらかんと惨いことを言う。魔力とはつまりセイバーにとって命とも言えるものなのに。
「何よその目は! 心配しなくても大丈夫よ、貯金分は使い果たしたって言ったって、体を保てないほど消耗したわけじゃないんだから」
「でもなあ―――。あんまり危ないことはさせるなよな」
 遠坂の家に出向して以来、セイバーの使い魔っぷりは目を見張るものがある。いや、いろんな意味で。
 遠坂曰く、遠坂の家は古い魔術師の家系よろしく、様々なアーティファクトが眠っているらしい。その中には人間では触れられないものもあるとか何とか。つまりセイバーは人間には届かない種類の海でサルベージに従事しているとのことだった。
 ―――まあ、セイバーに大事があったわけじゃなくて良かった。
安心したので現在進行形で深刻な問題に目をやる。
「そうか。じゃあ今晩は三人分でいいな。食材」
 そうと決まれば早速頭の中で献立を仕立て上げる。朝は冷たいものだったから夜は温かいもの。これだけは譲れない。確か今日は豆腐が安かったが、湯豆腐は先日したばかりだった。半月以内に同じ料理が出るのはあまりよろしくない。さて、どうするか。
 いっそ今晩は失業祝いに肉を奮発して、シチューにでもしようかなと考えていると、横から遠坂が恐ろしいことを言う。
「あら、今晩わたしとセイバーお邪魔するけど」
 藤村先生と桜は? などと聞いてくる。ちょっと待て。
「……セイバー、今日一日眠るんじゃないのか」
「食事くらい摂るわよ。魔力不足の今なら特に」
 よろしくねー。そういって笑う。その笑顔はひどく魅力的で大変よろしいのだけれど、それでも藤ねえと桜に心の中で手を合わせて、今晩は湯豆腐にすることにした。

「え、衛宮!? またも女狐に誑かされて―――!」
 教室に入るなり、一成にぐいと腕を引っ張られる。隣の遠坂は余裕で「おはよう。柳洞くん」なんて言っている。間に挟まれる立場の俺のことも考えて欲しいと思った。
 ところで、教室に入るなり、と言ったからには俺と遠坂は同じ教室にほぼ時を同じくして入ったのである。そしてその教室には一成がいた。
 このことがどういうことか解るだろうか。
 つまり、今現在、我が三年A組は現役生徒会長と現役裏番長の割拠するとんでもない戦国クラスになっているのである。おまけに双方のナンバーツーが同じ奴で、つまり俺なのだから、義理を取るやら人情を取るやら、三年に上がって約二週間なかなか大変な学園生活を送っていたりする。
「一成、おはよう。朝から元気そうだな」
 ぐいぐいとついに一成の机まで連れ込まれてしまった。すぐ後ろの席が俺の席なのであまり問題ないが、毎朝これだと非常に疲れる。
「おはようなどと何を暢気な……、ええい、そこへ直れ! 今すぐ憑き物を祓ってくれるわ!」
 そうしてくれると大変ありがたいのだが、一成に祓える種類の憑き物ではないので丁重にお断りした。
「あのな、一成。悪いけど、今後俺と遠坂のことには目をつぶってて貰えると助かる。通学路が遠坂と一緒だから必然的に一緒に登校することも多いだろうけど、毎回これじゃ身が持たない」
 と言うか、一週間続けてほぼ同じ朝を過ごしている俺は、ほぼ確実に何かに蝕まれているように思う。主に胃腸関係。
「何……衛宮、お前まだそんなことを……! 一体あの女狐にどんな弱みを握られていると言うのだ。いいから話してみろ、衛宮!」
 本気で説得を試みる一成。そして試みられている俺。ここで黙秘というのはいかにも怪しい感じがして良くないけれど、しかしどう言ったものか。こうしている間にも後頭部に物騒な視線をびんびんに感じるし。
 言いあぐねていたら、上手い具合にチャイムが鳴った。規律に厳しい生徒会長殿は大人しく引き下がってくれた。
 ――――と。
「みんなおっは――――」
 三年A組の担任藤村大河教諭が教室に突っ込んできてそして挨拶しようとしてそして言葉の途中で派手にすっころんでピクリとも動かなくなった。
 ―――教室に一瞬緊張が走る。
しかし、去年ならばここでどう処置したらいいものかと作戦会議が始まったものだが、今年のクラスは一味違った。今年のクラスは対タイガー専用兵器を備えていたのだった。
「あちゃー、藤村先生また倒れたよ。遠坂さんお願い」
「遠坂頼む。派手に起こしてやってくれ」
 と、一番前の席に座る一見美少女に、一見無茶な声援を送る。
「オッケー任せて」
 と、一見美少女その実最終兵器彼女な彼女は声援を余裕で受けて、倒れた担任の耳元に近づく。
 ―――遠坂の本性の四分の一くらいは、二ヶ月前の一件で一般生徒の知ることとなっていた。周りも澄ましている遠坂よりそっちの方がしっくり来るようで、遠坂の人気は前以上に上がっている。世の中というのは不思議である。きっとそれ以上、半分くらいの遠坂の本性を知っていて、何となく現状に納得できないのは、俺と、遠坂を敵視している一成と、遠坂の後ろの席で笑いを堪えている美綴と、そして耳元で何かを囁かれている藤ねえだけなのだろう。
 何を囁いているかなど俺は知らないし、遠坂にも藤ねえにも聞く気になどなれない。
「おのれ仇敵―――――――――――――――!!!!」
 がおー。と涙目で立ち上がる藤ねえの姿を見ると、恐ろしくて聞けないのだ。

 一日の授業が全て終わった。
 一成と美綴に簡単な挨拶を済ませて、荷物をまとめる。今日は生徒会に呼ばれることも、弓道部に顔出しを強制されることもなかった。俺みたいな人間に声がかからないのは平和の証である。素晴らしいことだ。
 ところで遠坂はと言うと、最近放課後は運動部の人間を集めて何やら怪しげな会合を開いているらしい。時代が時代なら集会禁止で停学になっているところだが、安田講堂事件からウン十年経った今では、あんな校則影も形もない。このままだと遠坂率いる運動部VS一成率いる文化部と言う学園の歴史を塗り替えるイベントが見えてきそうで、頭の天辺から首筋までくまなく冷や汗が浮かんでくる。
ぼやぼやしていると俺にも声がかかりそうなので、外れるイメージの的を外すように、しれっと下校する。
「あ、士郎、今から――――」
「じゃあな遠坂。また今晩」
 ロックオン直前で足早に逃げ出す。遠坂は一瞬獲物を逃がしたハンターのような目をしたが、すぐに諦めたらしい。つまり、まだ集団に俺を取り込む段階ではないということ。遠坂がその気になったら、俺を味方につけることなど指を折るより簡単だろう。準備が整った日のことを考えると、やはり冷や汗ものだった。

 マウント深山商店街に着く。学校帰りに夕飯の買出しをするという定番のコースだった。
夕方時の商店街はさすがに人が多い。住宅街のすぐ近くなので勝手がいいのだ。その上娯楽施設が皆無な分、食料関係はほぼ無敵であるといっていい。冬木の主婦(主夫)は、常にマウント深山商店街と共にあるのだった。
 早速スーパーに入る。商店街には豆腐専門店もあるのだが、本当に美味しい豆腐を食べようと思ったときにしか利用しないので、今日はスーパーの安価な豆腐に一直線なのである。
 ―――と、豆関係のコーナーの手前、乳製品のコーナーで見知った顔を発見した。
「こんにちは、シエルさん」
 シエルさんのヨーロッパ系の顔は、ほぼアジア一色な店内でとても目立つ。
「あ、衛宮くんこんにちは。夕食のお買い物ですか」
「はい。豆腐を買おうと思ってるんですけど、まだありました?」
 向こう側、つまり豆関係のコーナーからやってきたらしい彼女に聞いてみた。
「それは残念でした。安売りの豆腐はもう品切れだそうです。やっぱり一人あたりの購買数が制限されていない安売り品は、すぐ無くなりますね」
 ―――しまった。お一人様三点までとか、そういう類の安売りではなかったのか……。そうなると学生の身では辛いものがある。制限のない安売り品は、昼の間に専業主婦の奥様方にあらかた買われてしまうのだった。
「でも鶏肉はまだ残ってましたよ。お一人様二パックまでの」
 おお、一筋の光。今晩は鳥鍋に急遽変更。教えてくれたシエルさんに礼を言う。
「助かります。例によって懐が厳しいもんで」
「あれ、衛宮くんまだバイト見つかってないんですか? 衛宮くんなら引く手数多な感じがしますけど」
「んー。条件に拘らなかったら結構沢山あるんですけど、メインのアルバイトだから収入と趣味の両方に適うバイト無いかなーと」
「はー。世のリストラお父さんが聞いたら泣きながら卓袱台返ししそうな話ですね」
 妙なことを言って感心するシエルさんだった。
 ふとシエルさんの買い物籠に目を落とす。カレールーの御山様が鎮座しておられた。それも大量の上に超をつけて。ジャガイモにんじんタマネギそして肉の量も半端ではない。
「カレー……ですか?」
 他にどんな料理が想像できるというのか。しかしあっけにとられて思わず聞いてしまった。
「ええ、わたしカレー大好きですから」
 胸を張ってそう言う。それにしても尋常な量ではなかった。
「言ってませんでしたか? それに確か初めて会ったときもカレーのお店だったような」
「そうでした? でも言われてみればそんな気が―――」
 確かあれは半月ほど前、マウント深山商店街のカレー兼香辛料専門店だったはずだ。
 一人の外人女性が売り場の前で青褪めていたのを発見し、心配になって自分から声をかけていたのである。以前ケーキ屋で外国の貨幣を両替をした時と同じ感覚だった。その時のように一期一会かと思っていたら、翌日このスーパーでまた会って、何となく挨拶を交わすようになったのだった。
 確かその青褪めていた原因というのが―――
「あ、そうか、サフランライスだ」
「そうです。サフランライスです」
 あれはまったくおぞましい体験だった。俺はシエルさんのとばっちりを受けたといってもいい。事実、気づいていたのはシエルさんだけなのだったから。つまり言語と文字は、一文字間違えると、ひどく気味の悪いものを生む時だってあるということだった。仏語と英語の入り混じったそのスペリングは、たった一文字間違っていただけで、その意味を百八十度変貌させていた。それは一つの世界が終焉を迎えたような衝撃だった。詳しくは想像力を働かせて欲しい。俺はあれを思い出すだけで口の中に嫌な唾が溜まるのだ。あえて説明することは控えさせてもらう。
「それじゃ、そろそろ」
 買い物籠のなかに牛乳パックを入れて(カレーがまろやかになるのだ)、シエルさんはレジに向おうとする。
「あ、はい。それじゃあ」
 さようならと、カレーの女王を見送った。

 その後も安くて腹に溜まるものをとあちこちを奔走していたら、帰りがすっかり遅くなってしまった。
 薄暗がりの中、衛宮邸には既に明かりがついていたので、藤ねえか桜、或いは二人とも、そして遠坂とセイバーがいるのだろうと思った。
「ただいまー」
 がらがらと玄関を開ける。靴の数は二人分。遠坂とセイバーはまだ来ていないようだった。
 居間に入る。恐らく藤ねえと桜も今着たばかりだったのだろう。二人とも卓袱台でお茶を飲んでいた。
「あ、先輩お帰りなさい」
「士郎お帰りー。でさ、桜ちゃん、遠坂さんったら今日の朝のホームルームで……」
 何やら物騒な話題だったので、卓袱台に席を並べることを避け、足早に台所に行って料理の準備を始めた。
 いつもだったら桜が手伝おうとするのだが、今日は藤ねえとの話に夢中らしい。話の弾む居間は値段がつけられない宝である。こっちに意識が向く前にささっと下ごしらえを済ませてしまおう。

 で、夕食後。
 結局遠坂とセイバーは姿を見せなかった。電話の一本もない。こちらから電話をしようとも思ったが、セイバーの眠りが思いのほか深かったと言ったくらいだろうに、電話は大げさだろうと、一応食材だけ作り置きしておいた。
 それでも、何の連絡もないというのは些か心配である。
 桜を送るついでに、遠坂の家に様子を見に行くことにした。
 
 遠坂の家に着く。相変わらず大きく、少し不気味な屋敷である。気合を入れなければ、やっぱり帰ろうかなと言う気分になる。これは遠坂の家特有の結界らしい。来るものを拒み、去るものを追う。矛盾した幽霊屋敷のような概念。それこそが冬木のセカンドオーナー、遠坂凛の工房なのだった。
 呼び鈴を鳴らそうとして、鋭い殺気に気づく。押せない。これを押したらよくないことが起きる。どう考えても肯定的な気分にはなれない。足がすくむ。いっそ逃げ出してしまいたくすらある。
 しばらく呼び鈴を前に躊躇していると、扉のほうから勝手に開いてくれた。
「何だ、士郎じゃない。いつまでも扉の前にいるからなんだろうと思って見にくれば、あんた何してるの? 用があるなら上がりなさいよ」
 早く。と、遠坂は俺を家の中に引き入れて鍵をかける。何かあったな、と思うには十分な、慌てたような仕草だった。

「で、何の用よ。こっちは今忙しいんだから、つまんない用だったらはったおすわよ」
 居間に通されて、紅茶をごちそうになる。そうしている間にも遠坂は終始そわそわしていた。
「いや、夕飯時に来なかったから何かあったのかと――――。実際、何かあったんだろう? 話してみろよ。俺が力になれることなら何でもする」
「馬鹿ね、何もあるわけ――――」
 言いかけて、口元に手を当てて何か考える遠坂。やがて考えがまとまったらしく、深いため息と共に言う。
「そうね。士郎だって部外者じゃないんだから一応言っとく。簡単に言えばね、ばれちゃったのよ」
「ばれたって――――」
 何が、誰に?
「セイバーが聖杯戦争からこっちそのまま居残ってるって、教会の連中に。まったく、しくじっちゃった。一生隠匿しておくつもりが、外に漏れちゃったらしいの。まあ――――セイバー結構自由に外出てたから、時間の問題といえば、まさにそれだったんだけど」
 市内だったら何とかなると思ってたんだけどな―――。言って、再びため息。しかし、申し訳ないことに教会に関して俺は殆ど素人なのだった。
「え……と、それってどういう風にまずいんだ?」
「ああ、士郎は知らなかったっけ。そうね、端的に言えば――――。このままだと、教会から代行者が派遣されて、私もセイバーも殺されるわね」
 ――――端的に言いすぎだった。言葉が直接的過ぎて逆にイメージが湧かない。いや、頭がイメージを拒否しているのかもしれない。とにかく、頭に浮かんだのは疑問符ばかりだった。
「殺されるって――――それは、何故」
「教会って奴らはね、人間以外の人間の形をした存在がそれはもう大っ嫌いなの。代行者となると、もうほとんど病気に近いわね。人外を祓うエクソシストではなく、人外を殺すエクスキューター。セイバーみたいな魔力の塊、平時からこの世に存在しているなんて、奴らが容認するとは思えない」
「それで――――」
「そう。今は篭城ってとこ。セイバーは二階に隠してある。いつばれたかは解らないけど、もう冬木に乗り込んできてる可能性は十分だから。けど、安心して、士郎のことは多分ばれてないから。今すぐここを離れて、しばらく私たちに近づかなければ―――――」
 ぴんぽーん、と場にそぐわない間の抜けた音が響いた。
「――――来たわね」
「来たって――――代行者が? まさか、ここは遠坂の工房だろ? わざわざ敵の工房に乗り込んでくる奴はいないだろ」
「馬鹿。士郎はさっき体験したばかりでしょう? 今は結界のレベルを上げてるの。今、この屋敷の呼び鈴を押せる人間なんか、この冬木には居ないわよ。いいから士郎は二階に行ってて。ここは私が切り抜けるから」
「馬鹿はそっちだ。遠坂に任せて隠れてなんていられるか。それに、セイバーが残ることは俺だって賛成したし、そもそも遠坂とセイバーが殺されるのなんて絶対にごめんだ。遠坂が二階に行ってくれ。ここは俺が何とかする」
 遠坂より早く玄関に行く。
「ちょっと――――! あんた、なに言ってるの!」
 遠坂の言葉を聞かず、扉を開ける。そこに立っていたのは――――
「―――――こんばんは、衛宮くん。遠坂さんはご在宅ですか?」
―――――修道服を着たシエルさんだった。
「な――――――!」
 言葉に詰まる。夕方まで談笑していた相手が何故ここに居るのだろう。想像力が追いつかない。彼女、彼女は確か――――いや、考えてみると、俺はシエルさんのことを何も知らない。そもそも―――――そのことを疑問にも思っていなかった。
「そいつはただ家に遊びに来た友達よ。帰るんだから道を空けてあげてくれない?」
 後ろから遠坂の声がする。
「あら、こんな時間にですか? それはそれは――――って隠さなくても結構ですよ。衛宮くんが関係者だということは調べがついていますから」
 ギリ――――と遠坂が唇を噛む音がする。
「そう―――。ならどうするの? 私と士郎、この場で両方殺す?」
「いえ、そこまでは考えていません。立ち話もなんですから、出来れば家に上げてもらえませんか?」
 敵の工房だというのに、シエルさん、シエルの体には全体から余裕が溢れていた。彼女は敵意のある魔力の中にいて尚、水中の魚のように活き活きとしていた。
「紅茶も出せないけど、それでよければどうぞ」
 遠坂が俺を引っ張って居間に連れて行く。シエルもその後に続いた。そのシエルに聞こえないような小声で遠坂が聞いてくる。
「あんた、代行者のこと知ってたの?」
「ああ、半月前から―――、けど変だぞ。俺、彼女から変な印象を何も受けなかった。いくら何でも、勘繰るような目をされたら、俺だって気がつく」
「きっと暗示にかかってたのよ。代行者のことを疑問に思わず、親しい存在に感じるようにって。予め潜伏して私の周りを探ってたのね。ああ、しまったなぁもう。士郎は関係ないって突っぱねるつもりだったのに」
 再度歯噛んで、俺と遠坂は居間の静かな空間に帰ってきた。

 俺と遠坂が並んでテーブルに着く。シエルはその前の席。両方の顔が見える位置に着席する。居間は緊張をはらんでいるというのに、何処か親密な空気が流れていた。そして、これがシエルの暗示なのだと気づくころに、遠坂が口を開いた。
「で、どうするの? 私は教会になんか殺されてやらないし、それは衛宮くんだって同じよ。わざわざセカンドオーナーの工房にまで乗り込んで来たんだから、争う以外に話があるんでしょう?」
「はい、その通りです。話のわかるお嬢さんで助かりました」
 お嬢さん、と言うところにアクセントのある話し方だった。
「教会の上層部も、協会のホープである遠坂さんといざこざを起こすのは得策ではないと考えています。こんなことで協会と軋轢が生じてもつまらないですしね」
「そう。なら大人しく帰ってくれるってわけ?」
 冷笑を含んだ口調で言う遠坂。
「まさか―――――。遠坂さん、悪いことは言いません。サーヴァントを教会に差し出しなさい。そうすれば――――あなたと衛宮くんは見逃してあげます」
 ―――――――。
一瞬、理解が追いつかなかった。今、シエルは何と言った?
 セイバーを見殺しにすれば、俺たちは助けてやると、そう言ったのか?
「お断りだ。俺はお前に殺されてやらないし、遠坂もセイバーも殺させない」
 遠坂も隣でうなずく。交渉は決裂した。シエルがどう出るかなんて知らない。けれどもどう出た所で、遠坂もセイバーも死なない。それだけは決定事項なのだ。
 シエルは目を丸くして俺たち二人を交互に眺め、
「―――――そうですか」
どこか失望したような口調で言って、席を立った。
「なら容赦はしません。外に出るときは精々背中に気をつけてください」
 その言葉は最後の哀れみのように聞こえる。シエルは俺たちに背中を向けた。けれど、俺も遠坂も何も出来ない。何故俺はもっと早く彼女の正体に気づかなかったのだろう。シエルの背中は、それこそアーチャーの背中のように隙がない。
 
 何処か遠く、意識の外のほうで扉が閉まる音がした。
「士郎、大丈夫?」
 しばらく呆けていたらしい。遠坂が心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
 その―――――顔の近さに、場違いにも顔が赤くなりそうになる。
「っ―――――――! 大丈夫だ。心配ない」
「そう、ならいいけど。けど、どうしようか。士郎のこともばれちゃったし」
「どうしようかって。遠坂、俺のことがなかったらどうするつもりだったんだ?」
 と言うか、この場合俺のことはあまり関係ないような気がする。それとも、俺はよほど足手まといに思われているのだろうか。
「遠坂、もし俺が足手まといになるようだったら――――」
 ハッキリそういってくれ、俺は俺でシエルのことを何とかするから。そう言おうと思ったのだが、遠坂の呟きが俺の言葉をさえぎる。
「どうしようとしてたのかな――――」
「は?」
「――――そう言えば、何も考えてなかった」
「おい、それって」
「ふん、何よ。―――――あんたの事で頭がいっぱいだったからよ。責任取れ、馬鹿」
 まずい。本格的に顔が赤くなりだした。遠坂の顔も真っ赤である。
 二人して顔を赤らめているところに、都合よくか都合悪くか、セイバーの足音が聞こえてきた。
 居間の入り口に現れた少女。何故かひどく久しぶりに会った気がした。
 セイバーは俺の顔を見ると、驚いたような表情をする。
「シロウ――――。凛、これは?」
 どういうことだと、遠坂に目をやる。
「仕方ないでしょ。士郎が勝手に来ちゃったんだから」
「けれど、あれほどシロウは巻き込むまいと―――――」
 セイバーは身を乗り出して言う。本気で怒っている。
「セイバー。遠坂は関係ない。俺が自分で積極的に関わろうとしたんだ。大丈夫だよ。だって要はシエルを追い返せばいいんだろう? 難しいことじゃないさ」
 言って、ああ、詭弁を呈するにしても自分はまったく成長してないなと思った。シエルを追い返すなど、それだけでとんでもなく難しいことだと解っていたし、それに強い力で追い返したところで、またそれより強い力が俺たちを潰しに来るなどということは、十分理解していたのだから。 
「けれどシロウ―――――!」
「セイバー、今はとにかく現状をどうにかしよう。叱責ならその後で何時間でも受ける」
 とりあえずセイバーも座らせる。
 それにしても、昨晩で魔力の貯金が尽きたなどと言っていたが、セイバーはとても元気そうだった。それだけでも、何かの救いになるような気がした。

 一時間。長いようで短い時間だった。
 その間、意味のあるようで、まるで意味を成さない不毛な話し合いの後出た結論は、結局シエルを打倒するのは難しい、と言う事だった。つまり、一時間かけて入り口を正しただけだった。
 遠坂曰く、シエルは第七位の代行者で、空の弓と呼ばれる凄腕エクスキューターであるらしい。その格闘技能は教会内でもちょっとしたものらしく、サーヴァントスキル風に言えば、対軍クラスの格闘術を備えているらしい。そして何より、こと魔術行使において、彼女の魔術は時計塔の最上位魔術師に匹敵していると言う。つまり、インもアウトもなんでも来いと言うオールマイティーな人材であるらしい。さらにその実、彼女はそれらを凌駕する隠し珠を持っているらしいが、いくら遠坂でもそこまでは詳しく知らないとのこと。
 それでも、もしセイバーが本調子ならシエルを追い返すことは十分出来ただろう。しかし如何せん聖杯が消えてからこっち、セイバーは慢性的に魔力不足なのだ。「恥を承知で述べるなら、今の私ではシロウに勝てるかどうかも危うい」とはセイバーの言葉だが、言われて傷ついたのは俺だった。
「埒が明かないな――――」
 そして、恥ずかしいことに、最初に音をあげたのは俺だった。
「確かに、平行線をたどる一方だものね。今日はとりあえずお開きにしましょうか」
 と、遠坂が言う。セイバーも話をしているだけで辛いのか、さっきから集中力に欠けていた。
「じゃあ、とりあえずまた明日」
 立ち上がる。遠坂の非難がましい視線が突き刺さる。
「何かあったか?」
「何か、じゃないわよ。衛宮くん、まさかそのまま歩いて自分の家に帰ろうとしてないわよね」
「まさかじゃなくて、まさに帰ろうと思ってるんだけど」
 問題ありますでしょうか、と弱気な視線を向けてみる。
「あったりまえでしょう! あんた今代行者に狙われてるのよ!? 今ノコノコ外を歩いてみなさい、死角から黒鍵ぶっさされて一巻の終わりよ!」
 黒鍵と言うのは、ピアノの黒い鍵盤ではなく、シエルの常備している投擲用の武器らしい。いや、そんなことどうでもいいのだけれど。
「そんなことを言われても困る。俺はどうやったって外を歩かなくちゃ家に帰れないし、遠坂は道をすっ飛ばして帰れる方法でも知ってるのか?」
 俺の親父である切嗣は、そういう感じの魔術を習得していたらしいけど、それがどういった魔術行使だったのかは、まったく知らない。これもどうでもいい話。
「――――っ。そうじゃなくて、今晩はうちに泊まっていきなさいっての!」
「え――――――いや、そんなこと出来るわけないだろ! だってお前、俺なんて泊めたら、いや、とにかく駄目だ。却下だ。心配しなくても自分の身ぐらい自分で守れるさ」
 逃げるようにして部屋を後にする。遠坂は追っては来なかった。もしかしたら彼女は、今晩はシエルも襲っては来ないだろうと思っていたのだろう。肝心なところで読み違いをする。遠坂のその性格はいまだもって健在だった。

 外に出たときには既に零時を過ぎて、日付が変わっていた。
 中天に煌々とした半月が浮かぶ。一見片手落ちに見える月は、だがしかしアスファルトを凄艶に染め上げていた。
「さて―――――大人しく出てきたということは、サーヴァントを渡す気になったんですか?」
 街灯の上、編み上げ靴を履いたシエルの姿がそこにあった。
「くどいぞ。言ったはずだ、俺たちはセイバーを殺させないって」
 半月を背負ったシエルを睨みつける。シエルは大げさに見えるほど大きなため息をついて、
「そう――――――。でも、あなたの死体を見せれば遠坂さんの考えも変わるかもしれませんね」
 ―――――。
 瞬間、背筋が凍りついた。だが、呆けている暇はなかった。ここで戦えば遠坂が気づく。ならば少しでもここから遠くへ行かなければならない。
 坂道を転がるようにして下る。交差点、せめて交差点に着けば十分だ。夜風は冷えているというのに、知らず、手に汗を握る。シエルが黒鍵を投げる気配は無かった。ただ、つかず離れずの距離から、鋭い目で俺を射抜くだけ。それでも、十分の脅威だった。
 交差点に辿り着いて、シエルを見据える。視界に納まった彼女は、黒い服の印象もあいまって、まるで死神だった。
「おや、もう逃げないんですか?」
 右手には細長い釘のような投剣が握られている。黒鍵。数多の人外を葬ってきた、至高の武器がそこにあった。
 シエルの言葉には答えず、詠唱を開始する。
「I am the bone of my sword」
 体は剣で出来ている。この身は鋼なのだから、俺は遠坂やセイバーを守らなければならない。
 検索を開始する。探して探して辿り着いたのは一対の夫婦剣。現在もって、広く名剣の意とされる干将莫耶を己の内から取り出した。
「投影――――ですか」
 教会の代行者はさすがに鋭い。
「これほど早く、これほど見事な投影を可能とするのはバチカンの本部にも数えるほどしか居ないでしょう。増してや、本来儀式にのみ使うはずの投影を、そのまま実践で使用するとは。―――――それだけに惜しい」
 シエルは黒鍵を構える。投げるためにではなく、一本の剣として振るうために。
「あなたの魔力では、何本まとめて剣を投影しようと、わたしの黒鍵一本すら砕けないのだから」
 矢のような突進力でシエルが迫る。速い。とんでもない速度であるが、かつての聖杯戦争におけるサーヴァントのそれとは比べ物にならなかった。
「く―――――っ!」
 何とか陰剣を黒鍵の描く軌道に合わせる。しかし、それだけでは勢いは止まらない。陽剣も合わせて、ようやく拮抗し得る力だった。
「実は今日はあんまり装備を整えていないんです。あなたに費やせるのはこの一本だけ。楽には殺してあげられないけれど、許してくださいね」
 剣を合わせながら、シエルが言った。その表情はやはり余裕。今の俺にとって最速の投影に、限りなく本物に近づけた名剣。それをもってしても、シエルは微塵も揺らがない。
「―――――っ!」
 ピシリ。干将莫耶に皹が入る。持たない。僅かに一分すら拮抗できない。その程度の強度しか、俺の魔力では創造し得ない。それに気づくと、夫婦剣は音を立てて消え去った。
「くそ――――!」
 一歩引いてリロード開始。シエルの追撃が迫る一瞬前に、投影は間に合った。
「速い速い。で、いつまで持ちますかね」
 感情のこもらない軽口。シエルの一撃は受けるごとに重みを増し、従って急造の干将莫耶では何合も持たない。
 砕かれては次、砕かれてはまた次。シエルの黒鍵は自身の魔力で編まれているという。つまり、黒鍵の刀身は魔力。条件は同じはずなのに、俺の魔力で作られた剣は、合わせて十をもってしても、彼女の一を砕くことが出来ない。
「くぅ―――――――っ!」
 都合六対の干将莫耶が破られた。再びリロード。しかし今度はシエルの腕が速い。彼女は俺の胸倉を掴むと、そのまま―――――遠心力に任せて俺をぶん投げた。
 一瞬間違いなく空を飛び、やがて墜落した。落ちたのは電柱の下。背中の感触からして電柱は確実に砕けている。ならば俺の背骨は欠片も残っていないだろう。
 そこへ追撃の一撃。黒鍵の本来の使い方。投剣としての黒鍵が、俺のすぐ横の壁に突き刺さる。
「残念。外しましたか」
 そう言ったシエルは、俺から実に百メートルは離れている。彼女は俺を百メートルも投げ、かつ百メートル先の標的に黒鍵を投げつけたのか。
 恐ろしい腕力。それとも、これが教会の秘伝、鉄甲作用か。
 ゆっくりとした足取りでシエルが近づいてくる。表情にはもう俺が動けないという確信。悔しいがその通りだった。それでも俺はまだ生きていた。武器を破られ、背骨を折られ、それでもまだ生きている。生きているのなら何か出来るはずだ。何か――――。
 不意に体が浮かび上がる。首元にはシエルの手。ああ、そうか。俺は首根っこを掴まれて、空を飛んでいるのだ。
「しつこいですね。まだ生きてるんですか」
 シエルはまるで鏡に嫌悪するような表情で言った。
「なら、これでどうです?」
 と、左手で俺の首を支えたまま、右手を頭にやる。
―――――ギリギリギリギリギリギリギリギリギリ―――――。
頭が、砕かれる音、がする。
――――コウがシャリになる音。
頭が痛すぎて何も考えられない。鼻から耳から口から目から悪いものがあふれ出してくる感覚。死ぬ。これはもうどう考えても生きられない。
考えられないから足を上げた。思いきりテイクバックして、シエルの腹を蹴りつける。
「――――――――――――!」
 まるで丸太、いや鉄柱を蹴ったような感触だった。腹の柔らかさなど欠片もなく、臓物の感触には絶対に届かない。
 これではやはり死ぬのだろうと思った。
 ――――死ぬのだろうか?
 それは嫌だった。今死んでしまえば誰も守れない。俺が死んで遠坂たちが助かるというのならまだいいが、どう転んでもセイバーは確実に居なくなる。そんなのは嫌だった。絶対にごめんだった。
 しかし今の俺に何が出来る。シエルの一も砕けぬ剣をもって、俺に何が出来る。
「I am the bone of my sword」
 もうとっくに動かないと思った舌が動いてくれた。シエルには勝てないだろう。遠回りしたがそれは認めよう。確かに彼女の黒鍵は俺にとって究極の一だ。俺の投影など何の障害にもなり得ない位の。
 だが、しかし。
 相手が究極の一であるのなら、俺は無限の剣製をもってそれを打倒しよう。この身に一は必要ない。あるのは常に無限の剣のみ―――――!
「何を――――」
 強い魔力を感じたのか、シエルはその両手を離した。ああ、そうだろう。俺の中のサーキットは、今までにないくらいフル稼働で回転している。これなら可能だ。何だって出来る。
 痛みを総て切り捨てて立ち上がる。ぐらつく頭も、悲鳴を上げる背骨も知らない。
 自分でも知らないうちに詠唱が口に出ている。頭では認識できない。何故なら俺の脳みそは頭蓋骨からはみ出そうになるほど変形しているから。
 それでも視界はわりと良好だ。世界の変貌をきっちり収めることが出来るくらいには絶好調だ。
「これは――――固有結界」
 静かに、そして僅かにシエルの顔に焦りが生じる。アンリミテッドブレイドワークス。無限の剣を創り上げるこの世界の名前が、彼女には聞こえただろうか。
 シエルが黒鍵を取り出す。それは先ほど使っていたものだろうか、それともあれは壁に刺さったままなのだろうか。けれどその違いに意味はない。とにかく俺が行なうべきは片端から剣を引き寄せて究極の一を砕くことなのだから――――。
 ままならぬ体に無理を言って、全力で剣を振る。今自分が何を握っているかなど頓着しない。それに意味はない。ここにある剣は全て衛宮士郎から生まれたものなのだ。どれを振っても同じこと。ただひたすら、型になど構わず黒鍵を叩く。
 何本剣を振るったか、何本打ち砕かれたか、そんなことは知らない。体が悲鳴を上げれば耳を閉ざす。腕が言うことを聞かなくなれば無理やり回路を繋げて動かす。十回二十回と剣を振る度に俺が壊れていく。そして――――。
 ―――――ピシリ。
 終に、シエルの黒鍵に終わりが見えた。
 両手に一振りずつの剣を握る。馬鹿になった頭でもこれだけは間違いようがない。干将莫耶。俺がその姿に憧れた名剣は、究極の一を寸分違わず叩き―――――そして、打ち砕いた。
 同時に世界は元の姿へと戻る。衛宮士郎の不出来な内面を世界が厭うように、無限の剣製は姿を消した。
 深とした空気。あるべき世界が戻って、しばらくの間俺たちはお互いに無言だった。
「は―――。わたしはあなたに謝らなければいけませんね。あなたは立派にわたしの黒鍵を砕いた」
「………そんなの良いから、今回のことから手を引いてくれ」
 相変わらずの頭を通さない口の動き。既に視界も危うく、シエルがどんな顔をしているのかすら見えない。
「それは無理です。わたしは教会の第七位、空の弓ですから」
 シエルが言う。
「時間には限りがありますし、わたしは躊躇しません。残念ですが諦めてください。高名な空の弓の辞書に、そもそも躊躇という文字はありません」
 シエルの気配が消える。どこへ行く。そう聞こうとして、やはり頭を通してでは、馬鹿になった体は応じてくれなかった。
 あまりに体が消耗している。すでに痛みを感じる回路すらまともに働いていない。
 足先に力が入らない。ずるずると意識が薄れて、俺はその場に倒れこんだ。 
 
 ――――interlude――――。

 夜空に半月が浮かぶ。
 不出来な月よ、と男はそれを罵る。
 男の容姿は本来満月のそれと並ぶほどの美男子である。ただし、現在彼の格好はひどく汚れていて、本来美しい面立ちを貶めている。
 その足取りは何千キロと歩いてきた者のように覚束ない。
 消耗し、消耗し尽した者の姿。
 事実、男は飢え、乾きを感じていた。
 ただし彼の体は人間と同じ食物では満足できない。
 男は道端に倒れる犬に近づき、その心臓に手を伸ばす。
 ――――ピチャリ、ペチャリ。
 とうの昔に冷たくなったそれを、時間をかけて舐めるように咀嚼し、やがて臓腑の底からせり上がって来る異物感に耐え切れず、男は嘔吐した。
 やはり、とうの昔に死んだ心臓では駄目だった。増してや畜生の臓物。男は飢餓の余りとは言え、自らがした行動を恥じる。
 やはり、ついさっきまで生きていた人間の心臓が良い。
 まだ暖かい血を飲み下しながら、柔らかい臓物を喰らう。それはなんと素晴らしいことだろう。
 男はそこまで想像しながらも、どうしても実行には移せなかった。
 ―――――男はつい先ほどまで地獄を見ていた者である。
 あそこはまさしく地獄であった。思い出したくもない様々な出来事が脳裏を掠めぬよう、男は意識的にその記憶を排除する。
 しかし、人道に悖ることを重ねれば、いつか自分は再びあそこに戻るのではないか。
 それは恐怖だった。飢餓など及びもつかぬ恐怖だった。
 やがて歩くことに耐え切れなくなった男は地面に身を伏せる。
 広い面積を持つ武家屋敷ならば、その玄関の一角を借りても問題はなかろうと思ったのだった。
 ――――interlude out――――。






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